エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2018年度春の例会・短信

2019年3月28日(木)に関西学院大学大阪梅田キャンパスにて2018年度春の例会を開催しました。当日は、43名の方にご参加いただきました。第一部の自由報告、第二部の書評セッション、共に盛況のうちに終えることが出来ました。いずれもご登壇者の方々とフロアの参加者のみなさまの間での活発な議論があり、会を追うごとに研究会全体が盛り上がっていることを実感できる内容でした。ご報告くださったみなさま、および書評者、著者のみなさまより、ご感想をお寄せいただき、こちらに短信としてまとめました。改めて、ご参加いただいたすべての方々に御礼申し上げます。(大会担当世話人:森本郁代・團康晃)

内容の詳細は、2018年度 春の研究例会をご覧ください。

短信

第一部 自由報告

「Garfinkel は Parsons をいかに読んだか」 を報告して

  • 樫村志郎氏(神戸大学)

本報告では、Garfinkel の Parsons Primer: Ad Hoc Uses (ca. 1960) (『入門』ないし『読本』)の紹介を通じて、ethnomethodology (EM) が Parsons の理論との密接な関係のなかで発展したという主張を証拠立てるとともに明細化しようとした。 Garfinkel のEMの生成とアメリカの社会学という問題は、私の近年の関心の多くを占めている(樫村 2015, 2016,2019)。またParsons の社会学をGarfinkelの解説を通して読むことで、私はParsons 社会学を再発見し、この主題が長く私の関心の一部であったこと(樫村 1989、1998)にあらためて気づいた 。以下ではこの問題に関連のあることをいくつか述べたい。

しばしばEM がParsons の社会学に源泉があると言われる(Garfinkel 自身の言葉も複数ある)にもかかわらず、Parsons とGarfinkelまたはEM との関係は多くが未解明のままである。その問題への関心も一般に低い。それだけでなく、少なくとも日本の学界(ここでは、法社会学および社会学についていう。)ではParsons の社会学が何かということの理解についても未解明の問題があまりに多いと感じられる。この事情は英米独などの学界ではさすがにいくらか異なっているが大勢を見ると大差がないともいえ、日本での関心の低さはこれが原因の一つであることは間違いないだろう。

そうであるとしても、EM の起源を尋ねる作業は、Garfinkel の著作や草稿だけでなく、Parsons 社会学の理解も必要である。未着手の問題の一例をいえば、Parsons とKenneth Burkeの間の交流と共感という問題がある。これはすくなくとも初期の Garfinkel が Burke を重要な仕方で引用していることから、興味を引くことがらである。

EMや会話分析(CA)の視角がまだ新鮮であった1970年代後半から80年代においては、EM が何かという問題がさかんに議論された。誤解もいろいろあったが、EM が既存の社会学から、ある根本的な仕方で距離をとった視角であることは学界の共通了解であった。その共通了解はその後深められることがなかったと思われる。EMとCAが応用的社会研究として その学問的地位を固め、また一定限度までその地位を高めるにつれてその共通了解はより薄くなった。 Pollner の予言は当たったというべきだろう(Pollner, 1991)。

私は、Garfinkel が今日学界に受け入れられている意味でのParsonian であったとはまったく考えていない。だが、Garfinkel によればParsons 理論は社会の記述のために社会学者が使用することができる装置であり、EMはこの事情を媒介にして、Parsons 社会学と順接的に、また逆接的に、連結する。この関係を正しく認識しておくことは、社会学や法社会学とEMやCAとの間で、EMとCA間での異同と統一を保持しながら、相互利益的で持続可能な関係を形成または維持し続けるために有益だと考える。

Parsons 社会学とGarfinkel の『入門』の何が特別に興味をひくことがらだろうか。まず、後年の研究では、Parsons の社会学は社会学という学問の綱領の宣言であった(Camic, 1987)。これはGarfinkel の企図が、少なくとも完成され公刊された著作については、研究方針(Garfinkel, 1967)やプログラム(Garfinkel, 2002)であったことと共通している。Structureという言葉の使用機会にも思いは到るかもしれない。また、Parsons 社会学に関する研究は、EM やCAとの関連での研究(Heritage, 1984 )も含めて、 The Structure of Social Action(1937 , 1949) (『構造』)が重視されている。これに対して『入門』は、主に『構造』以後1960年ごろまでのParsons の研究および草稿を対象としている。このことは『入門』の注目すべき特徴である。Parsons は1960年末にかれの社会学に対する評価が『構造』を主たる対象としていることに不満を述べている(Parsons, 1976a, 1976b)。『入門』におけるGarfinkelの読解はParsons に共感的な点が随所にみられるが、Parsons と共に、Garfinkel のParsons 社会学への視点が当時の学界の主流とは明確に異なる方向を向いていた点にも興味は惹かれるであろう。(Black, 1976, Selznick, 1961と比較せよ)。

文献:
Black, Max ed. 1976 (originally published in 1961) The Social Theories of Talcott Parsons: A Critical Examination . (Republished with a new afterword by Parsons), Southern Illinois University Press.
Camic, Charles 1987 “The Making of a Method: A Historical Reinterpretation of the Early Parsons,” American Sociological Review , vo;. 52: 421-439.
Garfinkel, Harold 1967 Studies in Ethnomethodology , Prentice-Hall.
——————— 2002 Ethnomethodology’s Program: Working Out Durkheim’s Aphorism , Rowan & Littlefield Publishers, Inc.
Heritage, John C. 1986 Garfinkel and Ethnomethodology . Polity Press.
樫村志郎 1989 『「 もめごと」の法社会学」』弘文堂.
———— 1998 「 法社会学とエスノメソドロジー」山田富秋・好井裕明編『エスノメソドロジーの想像力』,せりか書房: 224-237.
————- 2015 「 法社会学の対象と理論―エスノメソドロジーの社会学的形成の観点から」『 法と社会研究』第1号 3-29.
————- 2016 「 アカウントの社会学的解釈 ― Florian Znaniecki の社会学方法論を手掛かりにして―」山本顯治・西田英一編『和田仁孝教授還暦記念論文集・振る舞いとしての法』法律文化社 3-25.
————- 2019 「 社会構造の産出―エスノメソドロジーの生成と社会秩序の問題―」ダニエル H. フット・濱野亮・太田勝造編『村山眞維先生古希記念論文集・法の経験的社会科学の確立に向けて』信山社: 439-464.
Parsons, Talcott 1937,1949 The Structure of Social Action . McGraw-Hill. 1st edition. (2nd edition., reprinted with a new preface, The Free Press).
——————- 1976a (1961) “The Point of View of the Author,” in Black, ed.1976: 311-363.
——————- 1976b “Afterword,” in Black ed. 1976: 364-370.
Pollner, Melvin 1991 “Left of Ethnomethodology: The Rise and Decline of Radical Reflexivity,” American Sociological Review , vol. 56: 370-380.
Selznick, Philip 1961 “Review of The Social Theories of Talcott Parsons: A Critical Examination , edited by Max Black,” American Sociological Review , vol. 26: 932-935.

「縦断的調査データによる条件付き相互行為の実証研究」

  • 太田博三氏(放送大学)

本報告では,BTSJ日本語自然会話コーパスの中から,OPIインタビューを取り上げ、2回にわたるインタビュー・データを基に,フィラーやTF-IDFによる重要語がどの順序で生成されるかをベイズ更新で求めたものである.定性的なアプローチの中に定量的なアプローチを組み込んだものである.

ここで,本来の会話分析とは多少,手法がズレてしまうことになるが,発話連鎖を考える際に,会話スクリプトに対し,主観性を持って,設定するのには限界があると仮定したためである.つまり,筆者の今後の見通しとして,人間の知能では見当がつかないビッグデータを想定したものでもある.これを踏まえて,相互行為分析をベイズ推定で拡張したものとして,条件付き相互行為分析と命名した.

今回のOPIは1回目と2回目から構成されており,縦断データである.2回目のインタビュー・テストは1回目を踏まえて,行われているとみなすのが自然である.私たちの日常の会話も,前回の相互行為を踏まえて発話されるため,省略されたり,2者間での暗黙の了解などもあり,これらが,フィラーや接続詞・感嘆詞に表れるものとし,これらが出現する順番をベイズ推定を用いて定量的に追うことで,発話連鎖の流れがつかめるとしたことが,本稿の独自性である.

言語学では,フィラーや終助詞など単体で取り上げた研究がなされているが,実際にはフィラー以外の要因が介在し,複合的に生成されているのが現状である.ここでも,筆者の目的は,対話システムへの実用化に向けたものであるため,部分的なものではないことも,会場で説明できていればよかったと考えている.

本報告に対してフロアからは大変多くの貴重なご意見をいくつもいただけた.特に統計学のアプローチといった定量的分析を,定性的な発表の場で行うには,いくぶん,勇気が言ったが,今の世の中は,伝統的な頻度主義の統計学からベイズ統計学に移行し,人工知能の時代に突入しているのは言うまでもないと思う.トークスクリプトも,人間では到底負いきれない量のビッグデータになってゆき,更に画像や動画の要素も考慮されるべきという位置づけである.今回の発表が,数年後に繋がれば幸いである.記して感謝申し上げたい.

「経験について問うこと――性同一性障害のカウンセリング場面における身体と質問デザイン」

  • 黒嶋智美氏(玉川大学)・鶴田幸恵氏(千葉大学)・針間克己氏(はりまメンタルクリニック)

本報告では,性同一性障害のカウンセリングにおいて行われるオピニオン(意見書)のための診察場面で,精神科医が行う質問がどのようにデザインされているのかを分析し,精神科医のアジェンダに沿った区別があることを表示するプラクティスがあることを示した.

精神科医は,臨床心理士が既に患者から聴取した内容を電子カルテで確認しながら診察を進めていく.その中で,オピニオンに必要な情報の特定化のためになされる質問は,身体的な志向性を患者に向けていることが分かるやり方を伴うため,GIDオピニオンという課題にとってレリバントなことがらとして扱っていることを示すものとして産出されていた.他方で,オピニオンにとって,間違いがなければ受け止めるだけのことがらは,カルテを読み上げることが身体的に示されており,確認を行う記録のために行っている質問として産出されていた.

受け手である患者は,そのような精神科医の志向性を読み取り,前者の場合は,医師の示すオピニオンにとってレリバントなことがらに対する自身の扱いの仕方を,確認を与えるだけで特段の注意を要さないもの,あるいは,医師の志向に合わせて承認(あるいは非承認)するべきものとして区別していることを,応答のデザインの仕方によって示していた.

また,医師にとってレリバントであるとされ,その内容の特定化を必要とすることがらは,患者の理解とは,必ずしも一致するわけではなく(たとえば「ふつう」の規準),患者がそうした不一致を訂正することによって,患者自身のオピニオンにとってレリバントなことがらへの視角をより正確な記述によって示す機会も生み出されていることも明らかになった.

本報告に対してフロアからは大変多くの貴重なご意見をいくつもいただけた.記して感謝申し上げたい.

第二部 書評セッション

第二部では、城綾実会員による『多人数会話におけるジェスチャーの同期』(2018年、ひつじ書房)、松永伸太朗会員による『アニメーターの社会学』(2017年、三重大学出版会)を対象とし、書評セッションをとり行いました。評者の安井永子会員、秋谷直矩会員、著者の城綾実会員、松永伸太朗会員より感想をいただいておりますので、下記に掲載いたします。

城綾実『多人数会話におけるジェスチャーの同期』

安井永子 会員

本大会では、城綾実氏のご著書の評者をさせていただきました。城氏のジェスチャーの同期に関する長年の研究成果をレビューさせていただくことを大変光栄に思うとともに、評者という大役を仰せつかったことに戸惑いも感じておりましたが、ご著書から学ばせていただく貴重な機会をいただいたことに大変感謝しております。

城氏のご著書で示された議論の中で私がもっとも興味を持ったのは、ジェスチャーの同期において、参与者がジェスチャーの形状を話し手と合わせることよりも、ジェスチャーの産出タイミングを合わせることの方により志向しているという点でした。事例分析からは、ジェスチャーの形状が全く同じでなくても、そのストロークのタイミングが一致することが、相互行為の参与者たちにとっての「同期」の達成であり、彼らが、「自分たちが今、同じことをした」と認識できるポイントとなっていることが示されています。更に、ジェスチャーの同期によって、話し手による活動(説明や語りなど)の進行を邪魔しない形で受け手が理解を例証することが可能になったり、ジェスチャーと共に産出される音声が話し手と受け手間で多少食い違っていても、同じものが描写されたと認識できる安全性を確保することが可能になることが示されていますが、これらは、ジェスチャー(や音声)の同形性よりも、その産出の同時性によって可能となる行為や効果であると考えられます。このことは、この現象では同形性よりも同時性の方が「同じ」を担保するキーとなっており、タイミングを合わせてジェスチャーを産出するということこそが、「相手と同じことをしている」ことを可視化させていることを意味しています。つまり、複数の参与者が産出する描写的ジェスチャーが、同タイミングで産出されることによって、描写の手段となるだけでなく、「自分が相手と同じことを行っている」ということを示す手段にもなっているということです。これは、ジェスチャーの同期が、厳密に何が描写されたかよりも、ジェスチャーが同期したということそれ自体の方に重点が置かれた現象であるということを意味していると考えられます。

この城氏のご研究のように、ジェスチャーに関わる多様な現象が、参与者間のやり取りの中でいかにして立ち現われ、その後のやり取りをどう形成していくかを、様々な相互行為データの丹念な観察を通して解明しようとする研究はまだ少なく、今後、相互行為のジェスチャーについての理解を深めるためにますます重要になってくることと思います。

城氏からは、私の稚拙な質問の一つ一つに対し、大変丁寧なお答えをいただきました。また、フロアからも、有意義なコメントやご質問をいただきました。ジェスチャーの同期現象についてのみならず、相互行為におけるジェスチャーをどう分析するかについても改めて考える機会を与えていただいたこと、大変感謝しております。

城 綾実 会員

このたびは,拙著を取り上げていただきありがとうございました.そして,書評をご快諾いただいた安井会員に心から感謝いたします.さらに,フロアからも貴重なコメントを頂戴することができました.本当にありがとうございました.以下,書評セッションでいただいたコメントに触発されて考えたことを2点報告いたします.

まず,ジェスチャーの同期ははたして協調的といえるのかについて.いわゆる同期・同調現象と呼ばれる諸現象は,親和性や協調性の表示として心理学を中心に広く知られています.会話分析を用いた諸研究は,そうした現象の組織化における形式的特徴を精査することで,協調的なものばかりではなく,非協調的な同期もあることを明らかにしてきました.拙著では,少数事例の分析ではありますが,発話順番取得の競合(もしくは相手の発話内容より自らのそれを優先すべきだと主張すること)に際し,ジェスチャーの同期を利用することで,競合性を曖昧にしてしまうことができると述べました.この点についていくつかコメントをいただいたおかげで,ひとつ取り組みたいテーマが浮かびました.それは,相互行為におけるある種の序列や非対称性が生じうる場面において,序列や非対称性を極力あらわにしない形で対処するやり方に利用されるジェスチャーの同期について,どういった形式的特徴が「極力あらわにしない」ことを可能にしているのかを説得的に示すことです.今あるコレクションを再分析しつつ,新たなデータも検討したいと思っています.

次に,ジェスチャーの同期は同型性よりも同時性が優先されていることについて.この点は,唱和的共同産出との差異が生じる点のひとつであります.フロアからも,この点を突き詰めて分析することでジェスチャーの特性の一端に迫れるではないかとのコメントをいただきました.「同じ形状ではないが同じものを表現している」ことを担保しているものや担保できるようなやり方とは何なのか.それは経験や知識,常識などが関わっているのですが,その具体的なところを明らかにしていくことを,今後の課題としたいです.

本研究会のHPに拙著の紹介ページを掲載していただいた上にこのような貴重な機会にも恵まれたことを,身に余る光栄に存じます.今回,データから明らかになる身体の形式的特徴を記述し,確かな分析的根拠をもとに論を進めていくことに対する己の未熟さが露呈しましたが,読者にとって分かりにくかった部分や説得力に欠ける点を具体的にご指摘いただくことができたことを嬉しく思います.当日ご参加いただいたみなさまに厚く御礼申し上げます.

松永伸太朗『アニメーターの社会学──職業規範と労働問題』

秋谷直矩 会員

今回は、松永伸太朗(2017)『アニメーターの社会学:職業規範と労働問題』三重大学出版会の書評者としての登壇機会をいただいた。このような機会をいただいたEMCA研究会と、応答いただいた著者の松永さんにはこの場を借りてお礼を申し上げたい。

本書評に先立ってなされた書評やその他反響を見るに、アニメーターをめぐる労働問題に対して本書が大きな価値を持つ著作であることは間違いない。加えて、アニメーターの労働問題について調査・提言を行う法人での松永さんご自身の調査・研究とパブリックを行き来するその活動を、マイケル・ブラウォイが提唱した「公共社会学」の理想的なあり方のひとつとして評価することもできるだろう(この点については当日言い忘れた)。

とはいえ、私の力量の関係で以上の観点からの書評は難しい。そういうわけで、今回はテクストそれ自体の理解可能性という点に限定して書評をすることとした。フィールド調査で見聞きしたことをベースに社会学的テクストを書くという実践においては、調査者の観察やフィールドで収集した発言の断片などさまざまな「資料」を何らかのやり方で配置・記述し、一貫したストーリーを作り出すということが行われているはずだ。では、それはいかにしてなされているのか。以上を踏まえ、本書評は、一貫したストーリーを作り出す社会学テクストの叙述の分析として行い、以下2つの問いを投げかけた。

インタビューの各抜粋の分析結果の集積の結果として「アニメータの職業規範(職人的規範とクリエーター的規範)」という全体図を提示することができるという本書のストーリーの成立においては、個々のインタビュイーの職業規範に関する語りをその全体図の部分的証拠としてみなすことを前提としているようである。そうした手続きによって完成した全体図は、それを参照することによって個々の語りを全体図の部分として理解する資源としても用いられているようだ。こうした循環的関係を作り出す作業を当日は「パズルワーク」と呼んだ。ところが、個々のインタビュイーの語りがこの全体図とレリヴァントであるという証拠は個々の語りのうちにはないようにみえる。とすると、著者によるこのパズルワークはいかにして正当化されているのか。これが第一の問いである。

本書のキーワードとして、「クリエーター」「職人」「やりがい」などがある。これらのキーワードはわかりやすく、また本書の議論は、これらのキーワードを使うことで、読者にとって議論の要点を理解することは容易になっている。他方で、本書評で検討したとおり、たしかにこれらのキーワードをインタビュイーも使用しながら自身の語りを組み立ててはいるのだが、そこでの用法や意味は幅があるようである。この点についてどう考えるか。これが第二の問いである。

これらの問いに対する著者自身の応答や当日の議論の様子は著者の短信で書かれると思う(し、私の役割はあくまでも当日のフロアを交えた議論の呼び水であり、その任にないと思う)ので、私の短信は当日の発表の要約で終えることとする。

松永伸太朗 会員

今回の報告では、拙著『アニメーターの社会学:職業規範と労働問題』について秋谷直矩氏からいただいた的確かつ重要なコメントに対して、可能な限りの応答を行うことを試みた。同書は、アニメ産業で働くアニメーターがいかにして自らの労働条件を理解し、受容もしくは問題視しているのかについて、アニメーター16名へのインタビューから取得されたデータをEMの方針に基づいて分析し、彼らが用いている職業規範のあり方を示すことによって解明することを試みたものである。

秋谷氏のご指摘の要点は、以下の二点であった。

Q1:語りを「部分的証拠」としてみなし、それらを組み合わせて職業規範の全体図を描くという作業は、いかにして正当化可能か?

Q2:本書の記述は、「クリエーター」「職人」「やりがい」などのわかりやすいキーワードに引っ張られてしまっているのではないか?

この二点の問いは、拙著の抱える課題を適切に指摘したものである。しかし、これらの課題が生じた背景には、筆者が調査や執筆の過程においてEMCA以外の読者も説得しなければならなかったことが関わっている。筆者は、労働社会学を専門にしており、その学問の出自から社会学以外の労働研究にかかわる社会科学に対しても説得を行う必要があった。また、業界団体等を通して調査を遂行している以上、現役のアニメ制作者やそれに関心を持つファンにとっても資する書物として同書を執筆しなければならなかった。こうした任務を、EMCA研究から逸脱しない範囲で行おうとし、結果として秋谷氏の指摘した課題が残されたのが同書なのである。

本短信でリプライ内容をすべて振り返ることはできないが、要点は以下である。同書は、実際には筆者がインタビューにおいて用いていた「クリエーター」という語を最初に退けたアニメーターBさんの語りから疑問が提起され、同じBさんの語りが理解されるところで分析が閉じられる。この過程は、調査者としての筆者がアニメーターの語りを理解しようとする活動の過程それ自体である。そしてその過程を読者に追体験してもらうことによって、著者と同様の仕方でアニメーターの語りが理解されるように同書は構成されている。つまり、Q1の部分的証拠の組み合わせやQ2のわかりやすいキーワードの使用は、それ自体著者が調査という一連の過程において用いていたものであり、それが語りの理解可能性に関わっていると考えられたからこそ、同書内で一貫して用いられているのである。

このようなリプライに対して、研究会当日はお叱りを集めることになるのではないかと戦々恐々としていたが、報告の趣旨それ自体については一定の理解をいただけたようであり、大変安堵している。もちろん、すべての質疑に十分応答できたわけではないので、今後さらに考えを進めていきたい。なによりも、このリプライで秋谷氏の問題提起をクリアできたわけではなく、調査過程で研究者が獲得するエスノグラフィックな情報をどう扱うかなど、重要な課題が残されている。だが、今後のEMCA研究のさらなる発展を構想するときに、そのテクストが置かれるメディア論的な位置(読者層など)を考慮しながら、どのような出版の形式でどのような文体を用いてEMCA研究を発信していくべきなのかについては、今後もさまざまな立場から模索がなされていくべきであるように思われる。本報告が、EMCAの他の学問領域との関わり方についてなにがしかの論点を提起したのであれば、報告者としてこれほど幸いなことはない。